さすらいの薪人 心に刻む言葉

自身の薪ライフや、クリーンエネルギー、緑内障の目の状況、昔の海外生活や、思想哲学、生命尊厳の創価哲学など、かって気ままに綴ります。

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170312虹と復興

事故を追悼する

間もなく6度目の3月11日を迎える。
地震・津波の大きな被害を受けた東北各県では式典が行われる。原発事故の起きた福島県では原子力事故からの苦しみに思いを寄せる意味合いも強い。
もちろん、東北以外でも、この3月11日に特別な追悼イベントを行う自治体はある。また震災の起きた時刻の黙とうは、全国的に行われている。
しかし、それは静かに遠い「被災地」を思うという行事ではないか。そのとき、私たちの立ち位置は「遠くから悲しげに見守る他者」になってはいないだろうか。
4月26日には、チェルノブイリ・カタストロフィー31年の式典が旧ソ連の各地で行われる。
本連載第6回でも取り上げたように、チェルノブイリ原発から直線距離約1000キロ離れたサンクトペテルブルグ市でも、毎年、大規模な追悼集会が行われている。サンクトペテルブルグは直接の被災地ではない。それでもなぜ、これほど大きな追悼集会が続けられているのか。
ペテルブルグからは多くのエンジニアや専門家たちがチェルノブイリ原発の収束作業に投入された。命を失った人々、高線量下の作業で健康を害した人々も多い。彼らは被災者団体「チェルノブイリ同盟」を立ち上げ、追悼行事や、補償を求める運動を続けてきた。
「事故直後、ウクライナから避難してここ(ペテルブルグ)に住み着いた人もいる。そういう人の家族も含めれば、この町でチェルノブイリを体験した人は多い」。チェルノブイリ同盟のレニングラード州支部長ヴェリキン氏は言う。
去年の4月26日、式典はカザフスタン北西部のアクタベ市でも行われた。事故当時、カザフスタンからも収束作業のために若者が招集されたのだ。今なお、健康被害に苦しむ人々もいる。
彼らは、遠い被災地に向かって祈るだけではない。同じ町に住む身近な仲間たちの苦しみを思い、その権利を守るために訴え続けている。


遠くを思うだけでよいのか

「遠い被災地に向けて祈る」。それは大切なことだ。でも「被災地」は遠くにしかないのか。
自分の住む町を見回してほしい。そこには原発事故の影響から逃れて避難してきた人々がいる。その町から、事故の収束に関わる作業に参加した人々もいるかもしれない。
その人たちの顔を知らないまま、遠い場所の出来事として祈ってはいないだろうか。

(聖教新聞2017年3月2(木)付 チェルノブイリ30年の教訓 事故を追悼する 遠くを思うだけでよいのか ロシア研究者・尾松亮)

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チェルノブイリ サンクトペテルブルグ レニングラード ウクライナ 福島 追悼

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170310プレアデス星団

小説「新・人間革命」 大山の章 55・56・57より学ぶ 「創価学会仏」を永遠ならしめていく要件とは何か

創価学会仏について、『新・人間革命』の中で池田先生のご指導を学んで参りたいと思います。


かつて戸田は、「学会は、この末法にあって、これだけ大勢の人に法を弘め、救済してきた。未来の経典には、『創価学会仏』という名が厳然と記されるのだよ」と語っていたことがあった。
広布の大使命に生きる学会なればこそ、第六天の魔王は牙を剝いて襲いかかるのだ。
(聖教新聞2017年3月8日(水)付 小説「新・人間革命」 大山55)


法華経の不軽品に、「威音王仏」という名前の仏が登場する。この仏は、一人を指すのではない。最初の威音王仏の入滅後、次に現れた仏も「威音王仏」といった。そして「是くの如く次第に二万億の仏有し、皆同一の号なり」(法華経五五六ページ)と記されている。つまり「二万億の仏」が、皆、同じ「威音王仏」という名前で、長遠なる歳月、衆生を救済してきたと説かれているのだ。
戸田城聖は、「これは、威音王仏の名を冠した『組織』『和合僧団』とはいえまいか」と鋭く洞察していた。
個人の今世の寿命は限られている。しかし、広宣流布に戦う根本精神が師匠から弟子へと脈々と受け継がれ、一つの組織体として活動し続けるならば、それは、民衆を救済し続ける恒久的な仏の生命力をもつことになる。
「創価学会仏」とは、初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖という師弟に連なり、広宣流布大誓願の使命に生きる同志のスクラムであり、地涌の菩薩の集いである。

その「創価学会仏」を永遠ならしめていく要件とは何か。

第一に、一人ひとりが「広布誓願」の生涯を生き抜くことである。人生の根本目的は広宣流布にあると深く自覚し、苦悩する人びとと同苦しながら、「力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(御書一三六一ページ)との御聖訓を心肝に染めて進んでいくのだ。

第二に、「師弟不二」の大道を歩み抜くことである。死身弘法を貫いた創価の師の魂を受け継ぎ、師の教えを徹して学び、自らの行動の規範とするのだ。つまり、日々、心に師をいだき、師と対話し、“師ならばどうするか”と考え、戦い生きることである。

第三に、「異体同心」の団結である。日蓮大聖人は、「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(同一三三七ページ)と仰せである。広宣流布のために、それぞれが心を一つにし、全力を発揮していくなかにこそ、信心の血脈が流れ通うのである。
(聖教新聞2017年3月9日(木)付 小説「新・人間革命」 大山56)


学会は、「創価学会仏」なればこそ、永遠なる後継の流れをつくり、広宣流布の大使命を果たし続けなければならない。
山本伸一は、強く自分に言い聞かせた。
”断じて、人材の大河を開いて見せる!”
(聖教新聞2017年3月10日(金)付 小説「新・人間革命」 大山57)



広布誓願、師弟不二、異体同心。この実践とスクラムがあるからこそ地涌の菩薩であり、創価学会仏なのである。
まるでコイルに電気が流れているときに発生する磁石のようです。電気の流れが止まれば瞬く間に磁力は発生しません。
更に深く実践してまいります。

本当にありがとうございます。
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創価学会仏 広布誓願 師弟不二 異体同心 大山 新・人間革命