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28 2016

創価学会仏(そうかがっかいぶつ)とはなにか 創価学会の意味その2

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161228飛ぶ鷹

創価学会仏 創価学会は何のためにあるのか。引き続きその3です。
池田先生のご指導「法華経の智慧」より学びます。

創価学会は民衆の自発の力

全部、民衆自身の「自発の力」です。民衆の「内発の力」を開拓したのです。それが、すごいことなのです。学会の底力がそこにある。
上からの権威などで、これほど多くの民衆が、これほど長く、生き生きと動くわけがない。これこそ、まさに法華経の「地涌」の義そのものの姿なのです。
(法華経の智慧第3巻267㌻)


心こそ大切 「広宣流布のために」と定めることが多くの人の利益となる

問題は、そういう努力(修羅界の人の努力)が全部、自分の利己心から出ているということだね。仏法では「心こそ大切」と説く。同じような努力の姿でも、自分を超えた何らかの価値、善や美、多くの人の利益のためなのか、自分のエゴのためなのか。
私どもで言えば、「広宣流布のために自分がある」と心を定めて、自分を捧げきっていくのが信心です。しかし退転者・反逆者は「自分のために創価学会がある」という転倒に陥ってしまっていた。慢心のあまり、同志を尊敬するどころか、学会を利用し、役職を利用し、私を利用して、自分をさも偉く見せようとした。
(法華経の智慧第4巻142㌻)


奥底の一念を「広宣流布」に向けることで生命の基底部は仏界となる

十界互具の人生は、信心を根本に、「ありのままに生きる」ということです。十回互具を説かない教えでは、九界を嫌う。九界を断ち切って、仏界に至ろうとする。
これは、広げて言えば、人間を「刈り込んでいく」生き方です。ここがいけない。あそこが悪いと。だめだ、だめだと欠点を否定していく。その究極が「灰身滅智」です。そういう反省も大事だろうが、へたをすると、小さく固まって、生きているのか死んでいるのか、わからないような人間になる危険もある。
「角を矯めて牛を殺す(つのをためてうしをころす)」(少しの欠点を直そうとして全体をだめにする)ということわざがあるが、むしろ少しくらいの欠点はそのままにして、大きく希望を与え、目標を与えて伸び伸びと進ませる方がいい場合が多い。
そうやってはつらつと自信を持って生きていけば、自然のうちに欠点も隠れてしまう。例えば「せっかちだ」という欠点が「行動力がある」という長所に変わっていく。
自分の人生についてもそうだし、人を育てる場合もそうです。ありのままの自分で、背伸びする必要もなければ、飾る必要もない。人間だから、泣きたいときもあるし、笑いたいときもある。怒りたいときもある。迷うこともあるでしょう。
そういう、ありのままの凡夫が、奥底の一念を「広宣流布」に向けることによって、生命の基底部が仏界になっていく。
そのためには、広宣流布への強き責任感に立つことだ。(中略)
自分の魂の中、一念の中に、「広宣流布」を入れていくのです。一切の「我が同志」を入れていくのです。広宣流布を祈り、創価学会の繁栄を祈り、我が同志の幸福を祈り、行動するのです。それが広宣流布の大闘士です。
悪人は「悪鬼入其身」(悪鬼其の身に入る)(法華経勧持品第13の文、法華経442㌻)だが、その反対に、いわば「仏鬼入其身」とならねばならない。
(法華経の智慧第4巻256~259㌻)


以上です。
ありがとうございます。
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