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27 2016

読書力 齋藤孝 岩波新書

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題名 読書力 210P   著者 齋藤孝 ・ 岩波新書


 本は読んでも読まなくても良い、というものではない。読まなくてはいけないものである。自分自身がものを考えるとき、読書によって培われた思考力が生かされる。対話をするときにも、読書経験が大きくプラスに働いてくる。

 筆者は新書系を50冊読めと訴える。新書系の本とは、哲学書であったり、教養もの、筆者独自の考えが記されたものを言う。本の中身には、高い才能を持った人間が、大変な努力をして勉強し、ようやく到達した考え方が書かれている。本を読むとは、そうした筆者と二人きりで話し合っていることと同じということだ。

 本を読んだというのは、「要約がいえる」ことが一つの基準となる。一冊読んでも、内容はどうだったと聞かれ、「いやーとてもおもしろいよ」としか答えられなければ、読んだことにはならない。しかし、親書系を読むことで要約力を鍛えることが出来る。主旨が要約されている箇所を見つけ出し、頭に叩き込むことで、内容を把握するのである。読書力とは、短い時間で、重要なポイントを把握する力のことを言う。

 私の20代の本の読み方を考えてみると、一生懸命になって読んでいたものの、内容を理解できたものは少ない。深く読みきれていなかった。特に学会は正しいという固定概念が先行してしまい、その観点で判断してしまう。合わないものは心のなかで排除していた。そのため、筆者はどのような考え方を持ち、世間に何を訴えようとしていたのか十分に見極めることが出来なかったと思う。
昔の本は難しい漢字があってもルビを振っていたようだ。総ルビ文化のため、子供でも大人が読むレベルのものを読むことも出来た。同様に、聖教新聞はルビを振るようにしている。こうした文化は、日本の将来を考えたとき、この聖教新聞の配慮は大切なことだろう。

 筆者は今の日本には独自の宗教性がないため、国民の基礎的な価値観、倫理観、志、日本の文化、教養等が育ちにくい。それを補っていたのが幅広い読書であった。オウム真理教に入信した青年エリートたちも、幅広く読書を行っていれば、このようなことにはならなかったのではないかと訴える。読書の幅が狭いと一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。神秘主義的な団体を調査したところ、入信する人たちは決まって、あるところで思考停止していた。絶対的な価値観を一つ受け入れ、他を否定する思考パターンに陥っていた。読書の幅も限られていて、自分たちの教養に合致するものが選ばれ推奨された。それと食い違う場合には、憎むべき悪書として攻撃していた。ある種の哲学的問題には強くとも、色々なスタイルの生き方を味わうような寛容な態度は少なく、ある一定の生き方だけを模範する傾向があった。他者をどんどん受け入れていく柔らかさ。これが読書で培われる強靭な自己のあり方だ。

 宗教で気をつけなければならぬこととは、独善や盲目的にならないということだ。また、絶対的価値観を基準とする場合、それが何であるかということが重要である。わたしは、生命尊厳を絶対的基準に置く。絶対的価値観を誤るところに不幸が生じるのだと考えている。以下、なるほどと思うとことを抜粋した。参考にしてほしい。


■言葉を知る。思考するときは言葉で考える。読書から色々な言葉を知ることで思考自体が複雑で緻密になる。

■経験を確認する。読書のなかに共感できることを発見し、自分の具体的な言葉として表現が可能となる。

■ためらう=溜めること。読みながら著者に反論したい気持ちや疑問が生じるが、考えることがやがて力となる。

■音読の技化。的確かつテンポよく読み上げることで脳が活性化し、読書力の基礎が身につく。

■線を引きながら読む。赤=最も重要なこと。青=まあ大事。緑=主観的。このように三色で引く。

■読書のギアチェンジ。多種の本を同時に読むことで、広く深く読むことが可能とある。

■言い換え力をつける。例えば、~ですねと、話し言葉のなかに、相手の言わんとするキーワードを盛り込む。

■口語体と文語体を組み合わせた会話を行う。口語体は自然に身につくが、文語体は意識的な練習が必要。

■書くことである。書くことは人工的なこと。上手に書くことが出来る人は、ある程度話にもまとまりがある。

■本を読んだら人に話す。読んでいる環境、そのときの状況を丸ごと記憶するようにしてみる。

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