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06 2016

烈々たる日本人 よしだみどり 祥伝社

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題名 烈々たる日本人 P218
著者 よしだみどり ノン・ブック 祥伝社

吉田松陰について最初に書いた人物は日本人ではなく外国人だった!?
筆者はその事実を確かめるため,自分の足で現地に赴き史実に基づいて調査を開始する。そして,松陰やその弟子,同じ志を持った者たちの血と勇気が,今の日本の繁栄の礎を築いたという事実を伝えたのが,この本書である。史実に基づきながら淡々と述べられているため,小説を読むより感動は少ないかもしれない。しかし,彼の育った家庭環境や彼の残した言葉,またスティーヴンソンと比較するなど,さまざまな角度で描いているため,読むほどに松陰の魅力的な人間像が浮かび上がってくる。
私は特に,多数の弟子達の活躍によって松陰の思想が広まり,日本の時代を開いていったという事実に深い感動を憶えた。

あの「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」で有名なイギリススコットランドのスティーヴンソンが吉田松陰について書いた本「YOSHIDA-TORAJIRO(吉田寅次郎)」(1880年3月発行)の全文(筆者訳)が掲載されている。

吉田松陰に関わる書物が日本で最初に発行されたのは,「皇朝名臣傅」の1880年9月と云われているため,スティーヴンソンが世界で一番初めに吉田松陰について書いたことになる。
では,誰がスティーヴンソンに伝えたのだろうか。実は,松下村塾で学び,後に東京工業大学の初代校長,そしてハワイ領事館の総領事も務めた「正木退蔵」という松陰の弟子が伝えていたのだ。

吉田松陰は他国の巨大な力を前に,今のままでは日本は滅びると考える。“今の幕府ではもう日本を守ることが出来ない。このままでは中国・インドと同じように植民地化されてしまう”。彼にとって尊皇攘夷とは日本のルネサンスであり,他国の侵略から日本の民衆を守ることだったと考えられる。そのために日本の封建制度を変えようと智恵と力を得るために密航を企て,民衆を顧みず幕府権力の維持に奔走した大老・井伊直弼を引きずり落そうと企てた。しかしこの計画は発覚し,井伊直弼は幕府権威をひたすら守るために強権政治に乗り出す。そして遂に,あの“安政の大獄”で松陰を死に追いやったのだ。

吉田松陰が散ったのは数え年で30歳(29歳)。 伝馬町の獄で,処刑された場所は牢の東南の片隅,柳の木の前だったという。 首を切られる直前に発した辞世の詩
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吾今国の為に死す
死して君親に背かず
悠々たり天地の事
鑑照明神に在り
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂
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吉田松陰の書簡にいわく「凡そ生を天地間に享くる者、貴となく賎となく、男となく女となく、一人の逸居すべきなく、一人の教なかるべきなし。然る後初めて古道に合うと云うべし」。
吉田松陰は熱烈に未来への夢を抱いていた。彼は教えを乞う人々に対して「教えるなどという事はできませんが,一緒に学びましょう」という男だった。コミュニケーションの達人であり、何よりも魅力的な人であった。わずかな贈り物を受けたときは,細かく分けて門下一同に分け与えた。友人を何よりも大事にした。特に,女子教育の必要性を説いた数少ない平和主義者であった。

スティーヴンソンは,「勇気を持ってしたことの結果が悲劇的であったとしても,その失敗は成功となんら違いはない」というアメリカの思想家・ソローの言葉を引いて云う。
「彼は死んだが,彼の弟子や門下生があとを継ぎ,日本を変革へと導いた。生まれた国のために,彼の人生と体力と時間の全てを捧げて,ついに命を投げ打ってまで得ようとしたもの,それは今日の日本が広く享受し大いに恩恵に浴しているものであることを忘れてはならない。これは一人の英雄であるのと同時に,英雄的な一般の人々の話でもあることを読者に気付いてほしいのだ。」

彼の描いた大和魂とは,理想の未来とは何であったのだろうか。
私には,女性や子どもや弱者が幸福に暮らせる世界を目指していたように思えてならない。
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