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20 2015

大願に立つ人生こそ最も深い人生 悪知識を恐れよ

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2008年3月号の大白蓮華、希望の経典「御書」に学ぶ、上野殿御返事(竜門御書)(1560p)より、池田先生の御書講義より紹介させていただきます。


仏道修行を貫くことの難しさを、今度は、経典等に照らして述べられています。
ここで、最も心しておかなければならないのは、「悪知識」の恐ろしさです。
(中略)
大聖人は、以前から時光に、悪知識の恐ろしさを繰り返し教えてこられました。
悪知識は、味方のような姿で近づいてくることがあること、また悪知識が現れたその時にこそ、強盛な信心を奮い起こせば、必ず諸天善神が守護することなどを教えてこられたのです。(中略)

白居易(※はくきょい、白楽天ともいう、唐の詩人で「点額魚」という詩を詠んでいる)は、問いかけ、自答します。
「聞けば、龍になれば天に昇って雨を降らせる苦しみがあるそうだ。
そんな苦しみをするよりは、永く魚となって自由に泳ぎまわっているほうが、あるいはかえって、ましかもしれない」(中略)

竜は竜なりに雨を降らす苦労がある。この苦労を苦悩ととるか、使命ととるか。
この違いが、悪知識に敗れるか、成仏かの違いになるともいえる。
まさに、「心こそ大切」です。そして、その「心」の違いをもたらすものこそ、本抄に示されている「大願」にほかならないのです。
いわば、法華経の修行を完成させていくということは、より多くの人々の悩みを背負い、より大きな困難に立ち向かう使命を、喜び勇んで担うことといえるでしょう。

大聖人は、「あえてその生き方を求めていきなさい!必ず「仏」になれる!雄々しく後継の「竜門」を登りきっていきなさい!」と奮起を促されているのです。それが、妙法を持った私たちの「大願に生きる人生」なのです。

「かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかかれり」と仰せです。
「かれ」とは、舎利弗や久遠下種の人々が、長遠な期間にわたって退転したことです。
彼らと同じような退転の危機が、今、大聖人の一門の身の上に起こっていると仰せです。言うまでもなく、熱原の法難のことです。

この第六天の魔王による熾烈な迫害を、はねかえす方途は何か。それは、「大願」に立つ以外にありません。
「一生成仏」を我が人生の究極の願いとして定め、「広宣流布」という仏の大願を我が誓願としていく以外に、法華経ゆえの大難に耐える力は涌現しません。
ゆえに大聖人は、「願わくは我が弟子等・大願ををこせ」と胸奥から呼びかけられているのです。
大願に立つ人生こそが、何事にも動じない、最も深い人生となるのです。
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悪知識そのものは決して怖いものではありません。
しかしいつのまにか、自分では自覚せずに高みを目指さぬ人生で良しとしている自分になっていないか、ということかもしれません。
その生き方が、実は悪知識に染まっているのだ、その事を恐れなさい、とおっしゃっているのだと思うのです。

何のために私たちは今世に生まれ合わせたのか。
「大願」なくして創価の生き方はない、あらためて教えて頂きました。

今日も全力で戦って参ります。
ありがとうございます。
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