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第三文明2015年4月号に、松岡幹夫(まつおかみきお)氏と佐藤勝(さとうまさる)氏の対談のなかで、次のようにありました。
●「教義条項改正」に見る生成の哲学
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佐藤
私も今「聖教新聞」(創価学会機関紙)を読んでいますが、今年2015年1月29日、30日付に掲載された教学部による「会則の教義条項改正に関する解説」は、学会にとって大きな節目ですね。今後創価学会を論ずるうえでも、重要な文献になるものだと思います。
松岡
宗門問題に当事者として関わってきた私としては深い感慨があります。
佐藤
私は、あの解説を読んでハッとしました。日寛(大石寺二六世法主)教学の見直しを宣言したくだりは、要するに「もう宗門と学会は基盤が違いますよ。これからは無関係の関係になりますよ」という宣言だと思うんです。
松岡
これまでは日寛教学が、宗門と学会の議論の共通の土台になっていました。今回、その日寛教学のなかの時代的制約がある部分については再検討し、普遍的な部分についてはしっかり受け継いでいく。解説ではそういう宣言がなされているわけですね。「時代的制約がある部分」は、言いかえれば「普遍的ではない」ということになりますが、学会はそのことを「悪い」と言っているわけではないんです。日寛上人が時代状況に正く対応したからこそ、そのような形になっているわけですから。
佐藤
よくわかります。
松岡
ただ、そのような時代的制約がある部分について、21世紀の今になって固執することは間違いです。宗門はまさに、時代的制約がある部分に固執しつづけてきた。それゆえに、現代の人々を救えない宗教になっているのです。しかし今回、学会が正式に、時代的制約のある部分については再検討する。言いかえれば、相対化すると宣言したことによって、宗門と学会の議論の土台がなくなってしまいました。もちろん、日寛教学の普遍的な部分については、学会は一貫して大事にしてきたし、今後もその点は変わりません。
佐藤
日寛教学について、宗門側はそのような腑分けそのものを最初から放棄しています。宗門は法主絶対主義だから、法主であった日寛の主張の批判的検討そのものがないわけですね。そのような食い違いが、教学全体に及んでいるのだと思います。
松岡
佐藤さんはよくご存知かと思いますが、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドというイギリスの哲学者がいますね。
佐藤
ええ。哲学者であり神学者ですね。
松岡
ホワイトヘッドには科学と宗教の関係を論じた著者があって、そのなかで彼は次のように述べています。
「宗教も科学と同じ精神で変化というものに対決しえないかぎり、昔日の力を回復しないであろう。宗教の諸原理は永続的なものであろうが、これらの原理の表し方は絶えず発展しなければならない」(邦訳「科学と近代世界」松藾社)
この指摘を、宗門と学会の違いにあてはめてみます。日蓮仏法の「原理」は、「事の一念三千」になるかと思います。これは簡単に説明すれば、「われわれの一瞬一瞬の心が、万物と相即して一体である。全ては含み含まれ合っている。それが生きた現実である」という意味です。その原理自体は普遍的で変わらないわけですが、原理の表現、Expression の仕方が、宗門と現在の学会では異なっているのです。
日寛教学においては、日蓮大聖人が弘安二年(1279年)に御図顕された御本尊に求心性を持たせる表現の仕方をしてきました。特に宗門の正統性が問われた時代には、各人の信仰を深めるうえでも、大石寺の御本尊の意義を強調する必要がありました。
しかし、日蓮仏法が世界中に広まった今は、そうした求心性の段階を経て、むしろ平等性や民衆性が求められる段階に入っています。布教のうえでも、平等性・民衆性を前面に出すやり方でなければいけないでしょう。教学部の解説で「世界広布の伸展に対応して教義解釈の見直しを行う」と発表されたのは、そういう意味からだと思います。
佐藤
同感です。私も「潮」の連載「新時代への創造」のなかで、今回の改正について、「これによって教義においても創価学会は日蓮正宗から完全に決別した。その結果、日本というナショナルな枠組みにとらわれない世界宗教として発展していくことになる」と書きました(「潮」 2015年2月号)。
松岡
「ナショナルな枠組みにとらわれない」とは、「日本の大石寺という特定の場所を中心として教義を構成するようなあり方と決別していく」ということだと理解してよろしいでしょうか?
佐藤
そう思います。
松岡
世界のSGIメンバーのなかには、さまざまな事情から一生日本にこれない人もたくさんいるわけです。そうしたなかで、大石寺の御本尊にだけ特別な意味を持たせる教えの説き方をすれば、かえって無慈悲になってしまう。だからこの点では世界広布の伸展に即した原理の表し方に変えるべきでした。そもそも、絶対の法を完全に顕したという点では、大石寺の御本尊も学会員の御本尊も同じなのです。
佐藤
2013年にできた「広宣流布大誓堂」も、あれは「大石寺の代わりに、信濃町に新しい聖地が誕生した」という性格のものではないと思うんです。もちろん、学会員の皆さんの心のなかでは、総本部のある信濃町が学会の中心として意識されてはいるでしょう。しかしそれは、カトリックの信徒にとってヴァチカンが中心であるのとは意味が違う。「信濃町は特別な聖地で、そこに行かなければ救済されない」というものではないからです。
その点でも、学会はプロテスタントと似ています。もちろんプロテスタントの教会は各地にありますし、私自身が所属している教会もあります。しかし、そこが「特別な聖地」であるというわけではない。むしろ、救済は自分の心のなかにあるのです。
松岡
宗門の伝統的な捉え方は、「弘安二年の御本尊には日蓮大聖人の魂が宿っている。そこに参拝しなければ大聖人の魂に会えない」といったものでした。それに対して、今回明確にされたのは、「大聖人の魂は一人一人の信仰のなかにあるのだ」ということなのだと、私は理解しています。「事の一念三千」という原理は同じなのですが、その原理の表し方として、今の学会の表し方のほうが、普遍的であり、世界宗教にふさわしいものだと思います。
佐藤
今のお話しをうかがっていて、池田会長の思想そのものとの関連性を強く感じました。池田会長の思想は、英語の「Being」、ドイツ語の「Sein(ザイン)=存在」ではなく、英語で言うと「Becoming」、ドイツ語で言うと「Werden(ヴェルデン=生成)」なんですね。つまり、「生成」の哲学、「生成していく」というプロセスのなかにあるダイナミックな哲学なんです。ホワイトヘッドの神学者としての立場は「プロセス神学」といって、「世界は動的なもので、常に変化している。神でさえその生成に従属している」という考え方です。つまり「救済という大事業をしていくにあたっては、宗教は現実に合わせて変化していかなければならない」と捉える。私は、ホワイトヘッドのそうした捉え方は、日蓮や池田会長と相通ずるものがあると思うのです。
そして、日蓮は鎌倉時代にあってすでに世界を志向していました。日蓮の遺命は、キリスト教で言うところの「世界宣教」であると、私は理解しています。SGIの発展によって、21世紀になっていよいよ世界宗教としての本格的なスタートを迎えたわけで、そこのところから、日寛教学の見直しという動きも出てきたのでしょう。
そう考えますと、ここ(対談会場となった、創価学会下田牧口記念会館)の敷地内にある「牧口常三郎先生 法難頌徳之碑」に池田会長が綴られた碑文は、1993年のものではありますが、今日のこと、世界宗教としての本格的出発を見通して書かれたという気がしてなりません。碑文に「法滅の闇を払ひて、創価の法城に結集せる地涌の同志は一千万。先生が身命もて守られたる、幸と平和の広布の慧光は遍く世界を包みたり」との一節がありますが、これはまさに、宗門と決別し、その前時代性の鉄鎖から解き放たれた時、世界宗教として飛躍する条件が整ったという意味ではないでしょうか。
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長文になりましたが、とてもわかりやすいお話です。
世界の同志を過去の創価学会の教義にはめ込むのではなく、創価学会自ら変わっていこうとしている、まさに発迹顕本の姿なのだと思います。
今日も一日広布拡大の向けて、全力で戦って参ります。
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第三文明2015年4月号に、松岡幹夫(まつおかみきお)氏と佐藤勝(さとうまさる)氏の対談のなかで、次のようにありました。
●「教義条項改正」に見る生成の哲学
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佐藤
私も今「聖教新聞」(創価学会機関紙)を読んでいますが、今年2015年1月29日、30日付に掲載された教学部による「会則の教義条項改正に関する解説」は、学会にとって大きな節目ですね。今後創価学会を論ずるうえでも、重要な文献になるものだと思います。
松岡
宗門問題に当事者として関わってきた私としては深い感慨があります。
佐藤
私は、あの解説を読んでハッとしました。日寛(大石寺二六世法主)教学の見直しを宣言したくだりは、要するに「もう宗門と学会は基盤が違いますよ。これからは無関係の関係になりますよ」という宣言だと思うんです。
松岡
これまでは日寛教学が、宗門と学会の議論の共通の土台になっていました。今回、その日寛教学のなかの時代的制約がある部分については再検討し、普遍的な部分についてはしっかり受け継いでいく。解説ではそういう宣言がなされているわけですね。「時代的制約がある部分」は、言いかえれば「普遍的ではない」ということになりますが、学会はそのことを「悪い」と言っているわけではないんです。日寛上人が時代状況に正く対応したからこそ、そのような形になっているわけですから。
佐藤
よくわかります。
松岡
ただ、そのような時代的制約がある部分について、21世紀の今になって固執することは間違いです。宗門はまさに、時代的制約がある部分に固執しつづけてきた。それゆえに、現代の人々を救えない宗教になっているのです。しかし今回、学会が正式に、時代的制約のある部分については再検討する。言いかえれば、相対化すると宣言したことによって、宗門と学会の議論の土台がなくなってしまいました。もちろん、日寛教学の普遍的な部分については、学会は一貫して大事にしてきたし、今後もその点は変わりません。
佐藤
日寛教学について、宗門側はそのような腑分けそのものを最初から放棄しています。宗門は法主絶対主義だから、法主であった日寛の主張の批判的検討そのものがないわけですね。そのような食い違いが、教学全体に及んでいるのだと思います。
松岡
佐藤さんはよくご存知かと思いますが、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドというイギリスの哲学者がいますね。
佐藤
ええ。哲学者であり神学者ですね。
松岡
ホワイトヘッドには科学と宗教の関係を論じた著者があって、そのなかで彼は次のように述べています。
「宗教も科学と同じ精神で変化というものに対決しえないかぎり、昔日の力を回復しないであろう。宗教の諸原理は永続的なものであろうが、これらの原理の表し方は絶えず発展しなければならない」(邦訳「科学と近代世界」松藾社)
この指摘を、宗門と学会の違いにあてはめてみます。日蓮仏法の「原理」は、「事の一念三千」になるかと思います。これは簡単に説明すれば、「われわれの一瞬一瞬の心が、万物と相即して一体である。全ては含み含まれ合っている。それが生きた現実である」という意味です。その原理自体は普遍的で変わらないわけですが、原理の表現、Expression の仕方が、宗門と現在の学会では異なっているのです。
日寛教学においては、日蓮大聖人が弘安二年(1279年)に御図顕された御本尊に求心性を持たせる表現の仕方をしてきました。特に宗門の正統性が問われた時代には、各人の信仰を深めるうえでも、大石寺の御本尊の意義を強調する必要がありました。
しかし、日蓮仏法が世界中に広まった今は、そうした求心性の段階を経て、むしろ平等性や民衆性が求められる段階に入っています。布教のうえでも、平等性・民衆性を前面に出すやり方でなければいけないでしょう。教学部の解説で「世界広布の伸展に対応して教義解釈の見直しを行う」と発表されたのは、そういう意味からだと思います。
佐藤
同感です。私も「潮」の連載「新時代への創造」のなかで、今回の改正について、「これによって教義においても創価学会は日蓮正宗から完全に決別した。その結果、日本というナショナルな枠組みにとらわれない世界宗教として発展していくことになる」と書きました(「潮」 2015年2月号)。
松岡
「ナショナルな枠組みにとらわれない」とは、「日本の大石寺という特定の場所を中心として教義を構成するようなあり方と決別していく」ということだと理解してよろしいでしょうか?
佐藤
そう思います。
松岡
世界のSGIメンバーのなかには、さまざまな事情から一生日本にこれない人もたくさんいるわけです。そうしたなかで、大石寺の御本尊にだけ特別な意味を持たせる教えの説き方をすれば、かえって無慈悲になってしまう。だからこの点では世界広布の伸展に即した原理の表し方に変えるべきでした。そもそも、絶対の法を完全に顕したという点では、大石寺の御本尊も学会員の御本尊も同じなのです。
佐藤
2013年にできた「広宣流布大誓堂」も、あれは「大石寺の代わりに、信濃町に新しい聖地が誕生した」という性格のものではないと思うんです。もちろん、学会員の皆さんの心のなかでは、総本部のある信濃町が学会の中心として意識されてはいるでしょう。しかしそれは、カトリックの信徒にとってヴァチカンが中心であるのとは意味が違う。「信濃町は特別な聖地で、そこに行かなければ救済されない」というものではないからです。
その点でも、学会はプロテスタントと似ています。もちろんプロテスタントの教会は各地にありますし、私自身が所属している教会もあります。しかし、そこが「特別な聖地」であるというわけではない。むしろ、救済は自分の心のなかにあるのです。
松岡
宗門の伝統的な捉え方は、「弘安二年の御本尊には日蓮大聖人の魂が宿っている。そこに参拝しなければ大聖人の魂に会えない」といったものでした。それに対して、今回明確にされたのは、「大聖人の魂は一人一人の信仰のなかにあるのだ」ということなのだと、私は理解しています。「事の一念三千」という原理は同じなのですが、その原理の表し方として、今の学会の表し方のほうが、普遍的であり、世界宗教にふさわしいものだと思います。
佐藤
今のお話しをうかがっていて、池田会長の思想そのものとの関連性を強く感じました。池田会長の思想は、英語の「Being」、ドイツ語の「Sein(ザイン)=存在」ではなく、英語で言うと「Becoming」、ドイツ語で言うと「Werden(ヴェルデン=生成)」なんですね。つまり、「生成」の哲学、「生成していく」というプロセスのなかにあるダイナミックな哲学なんです。ホワイトヘッドの神学者としての立場は「プロセス神学」といって、「世界は動的なもので、常に変化している。神でさえその生成に従属している」という考え方です。つまり「救済という大事業をしていくにあたっては、宗教は現実に合わせて変化していかなければならない」と捉える。私は、ホワイトヘッドのそうした捉え方は、日蓮や池田会長と相通ずるものがあると思うのです。
そして、日蓮は鎌倉時代にあってすでに世界を志向していました。日蓮の遺命は、キリスト教で言うところの「世界宣教」であると、私は理解しています。SGIの発展によって、21世紀になっていよいよ世界宗教としての本格的なスタートを迎えたわけで、そこのところから、日寛教学の見直しという動きも出てきたのでしょう。
そう考えますと、ここ(対談会場となった、創価学会下田牧口記念会館)の敷地内にある「牧口常三郎先生 法難頌徳之碑」に池田会長が綴られた碑文は、1993年のものではありますが、今日のこと、世界宗教としての本格的出発を見通して書かれたという気がしてなりません。碑文に「法滅の闇を払ひて、創価の法城に結集せる地涌の同志は一千万。先生が身命もて守られたる、幸と平和の広布の慧光は遍く世界を包みたり」との一節がありますが、これはまさに、宗門と決別し、その前時代性の鉄鎖から解き放たれた時、世界宗教として飛躍する条件が整ったという意味ではないでしょうか。
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長文になりましたが、とてもわかりやすいお話です。
世界の同志を過去の創価学会の教義にはめ込むのではなく、創価学会自ら変わっていこうとしている、まさに発迹顕本の姿なのだと思います。
今日も一日広布拡大の向けて、全力で戦って参ります。
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