25 2016

折伏弘教と広宣流布の心 自分は南無軽報蓮華経である

スポンサーリンク
法華経の智慧5巻より池田先生のご指導です。

---
かつて戸田先生はいわれた。

「我々自身が南無軽報蓮華経である。ゆえに、たたかれようが、ののしられようが、ひとたび題目を唱えた以上は、水をのみ、草の根をかんでも、命のあるかぎり、南無軽報蓮華経と唱え抜いて、広宣流布へ向かっていくのだ。これが信心だ」と。

そして弘教については、こう教えてくださった。

「折伏に手練手管も方法もなにもありません。ただただ、おれは南無妙法蓮華経以外になにもない!と決めることを、末法の折伏というのです。それ以外にない。
 どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、どのようにやったら南無軽報蓮華経が人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。我、みずからが南無軽報蓮華経だ!南無妙法蓮華経以外になにもない!と決めきって、決めきるのです。
 おれはそれ以外にない、それで悪ければ、殺されても死んでもなんでもしようがないと、自分は南無妙法蓮華経だと決めきって、御本尊を流布することです」

---

ありがとうございます。
「いま威張っている人間が『しまった』と思った時が広宣流布だ」と戸田先生は言われました。
断じて、六根清浄という生命の実証を示して参ります!
関連記事
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ このエントリーをはてなブックマークに追加


◇スポンサーリンク◇

0 Comments

Leave a comment