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先生の入信記念日
さて8月24日は何の日でしょうか。
そうです。ご存知の通り、池田先生の入信記念日です。
この時の出会いについて、「人間革命」や「池田大作 行動と軌跡(著者・前原政之)」に描かれていた内容を元に紹介させていただきます。
1947(S22)年、8月14日、座談会会場にて、19歳の池田先生は初めて戸田先生とお会いします。
このときの状況について人間革命に詳しく書かれていますので省略しますが、若き日の池田先生は、幾つかの質問を戸田先生に率直に聞かれました。
1つ目は、「正しい人生とはなんでしょうか?」
戸田先生 「日蓮仏法は生命の本質を解決する。考えるのもよいが、大聖人の哲学を実践してごらんなさい。必ずいつか自然に自分が正しい人生を歩んでいる事を発見するでしょう。間違いないと断言する。」
2つ目は、「本当の愛国者とはどういう人をいいますか?」
戸田先生 「楠木正成もそうだろう。吉田松陰もそうだ。乃木大将もそうだ。しかし愛国者の概念は時代によって変わる。時代を超越した愛国者とは、妙法の信者である。その理由は、一人の尊い人間を救い切り、不幸な国家を救う源泉となり、崩れない真の幸福社会を築く基礎となるからだ」
3つ目は、「南無妙法蓮華経とはなんでしょうか?」
戸田先生 「一切諸々の法則の根本です。一切の宇宙現象は、みな妙法蓮華経の活動なのです。」
4つ目は、「天皇はどうお考えですか?」
戸田先生 「天皇も同じ人間です。主権在民のいま、象徴でよいだろうと思っている。」
池田先生は、このほかにも色々聞かれましたが、何の気取りもなく、ためらいもなく、思ったままを言われた戸田先生の人柄に触れて、10日後の8月24日に入会されるのです。
入信前後の葛藤
実は池田先生はすんなり入会されていなかったと言われます。
この10日間の間に、他の幹部からも重ねて仏法対話を聞かされました。
ある時は創価学会本部に赴き、5時間にわたって幹部と議論もされました。
その後入会したものの、若いのに題目なんてイヤだと3日間眠れなかったそうです。
2日間は題目もあげれなかったといいます。
そして3日目に、なんと雷が鳴って怖くて思わず南無妙法蓮華経と言われたそうです。(笑)
また、その後もなお迷い続けていた。長い間、心の中に抵抗があったといいます。
その理由は、戸田先生の姿を見て、この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたのです。
一年間もんもんと悩んできた。病弱な自分にできるだろうか。本当は自信がなかったんだと云われます。
父親からも猛反対をされました。
池田家は代々真言宗。どうしてうちの宗教を継がないんだと怒鳴られ、2人の口論を見て母親は悲しそうにみつめられていたそうです。
「今でも、母が悩み苦しんでいた姿が離れない。母の日々を思うと胸は痛む。」とといわれています。
当時の創価学会は、折伏の一点に純化された戦闘的な集団だったといいます。
私はその世代から少し離れているので、実際に経験はしていませんが、自分の父も以前折伏を受けた時の話しをしたことがありますが、それはそれはすごかったと言います(笑)
大きく発展しゆく過渡期でもあり、その時代にはきっと必要な経験だったのでしょう。
そうして経験し成長して、今の創価学会があるのだと思っています。
それはさておき、先生は、当時の信ずることにせっかちな会員の強引さや、情熱に任せて壮士気取りの青年の言動に、ひそかにつよい反発を抱いたこともあるといいます。
このときの心境を次のように書かれています。
「折伏しろっていうから自分の友人を10人ぐらい呼んだ。しかもだれも信心しない。一生懸命やっても友達は離れていく。・・・ 会合に行くのがやだから映画をみてしまった日もある。」
そうして本当に生涯を、仏法の探究と宣揚に捧げて悔いない決意を固めたのは、入会して1年後、戸田先生の経営されていた会社で働かないかと誘われた時だったといいます。
池田先生のきらいなこと
官僚主義であり、権威主義であるということ。
欠点とは、リーダーが傲慢になると、正しい報告に耳をかたむけなくなる。
建設的な意見をとりあげなくなる。実行に移さなくなる。上には諂い、下には威張る。地位や肩書で人を見る。
自分中心で保身を第一とし、責任感がない。独善的で、差別的で、秘密主義である。
石頭でしゃくし定規。視野が狭い。前例に強くこだわり、新しい物や、創造的なものを嫌う。思いやりや人間味に欠ける。
そしてこうも言われています。
男性主導だと、官僚主義になる危険がある。
その意味で、もっと女性の意見を反映させた組織でなければならない。女性の意見には、多くの真実がある。
非常に大切なことが書かれており、多くのことを学ばせていただきました。
あとは実践あるのみです。日々挑戦、日々努力!
本当にありがとうございます。
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先生の入信記念日
さて8月24日は何の日でしょうか。
そうです。ご存知の通り、池田先生の入信記念日です。
この時の出会いについて、「人間革命」や「池田大作 行動と軌跡(著者・前原政之)」に描かれていた内容を元に紹介させていただきます。
1947(S22)年、8月14日、座談会会場にて、19歳の池田先生は初めて戸田先生とお会いします。
このときの状況について人間革命に詳しく書かれていますので省略しますが、若き日の池田先生は、幾つかの質問を戸田先生に率直に聞かれました。
1つ目は、「正しい人生とはなんでしょうか?」
戸田先生 「日蓮仏法は生命の本質を解決する。考えるのもよいが、大聖人の哲学を実践してごらんなさい。必ずいつか自然に自分が正しい人生を歩んでいる事を発見するでしょう。間違いないと断言する。」
2つ目は、「本当の愛国者とはどういう人をいいますか?」
戸田先生 「楠木正成もそうだろう。吉田松陰もそうだ。乃木大将もそうだ。しかし愛国者の概念は時代によって変わる。時代を超越した愛国者とは、妙法の信者である。その理由は、一人の尊い人間を救い切り、不幸な国家を救う源泉となり、崩れない真の幸福社会を築く基礎となるからだ」
3つ目は、「南無妙法蓮華経とはなんでしょうか?」
戸田先生 「一切諸々の法則の根本です。一切の宇宙現象は、みな妙法蓮華経の活動なのです。」
4つ目は、「天皇はどうお考えですか?」
戸田先生 「天皇も同じ人間です。主権在民のいま、象徴でよいだろうと思っている。」
池田先生は、このほかにも色々聞かれましたが、何の気取りもなく、ためらいもなく、思ったままを言われた戸田先生の人柄に触れて、10日後の8月24日に入会されるのです。
入信前後の葛藤
実は池田先生はすんなり入会されていなかったと言われます。
この10日間の間に、他の幹部からも重ねて仏法対話を聞かされました。
ある時は創価学会本部に赴き、5時間にわたって幹部と議論もされました。
その後入会したものの、若いのに題目なんてイヤだと3日間眠れなかったそうです。
2日間は題目もあげれなかったといいます。
そして3日目に、なんと雷が鳴って怖くて思わず南無妙法蓮華経と言われたそうです。(笑)
また、その後もなお迷い続けていた。長い間、心の中に抵抗があったといいます。
その理由は、戸田先生の姿を見て、この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたのです。
一年間もんもんと悩んできた。病弱な自分にできるだろうか。本当は自信がなかったんだと云われます。
父親からも猛反対をされました。
池田家は代々真言宗。どうしてうちの宗教を継がないんだと怒鳴られ、2人の口論を見て母親は悲しそうにみつめられていたそうです。
「今でも、母が悩み苦しんでいた姿が離れない。母の日々を思うと胸は痛む。」とといわれています。
当時の創価学会は、折伏の一点に純化された戦闘的な集団だったといいます。
私はその世代から少し離れているので、実際に経験はしていませんが、自分の父も以前折伏を受けた時の話しをしたことがありますが、それはそれはすごかったと言います(笑)
大きく発展しゆく過渡期でもあり、その時代にはきっと必要な経験だったのでしょう。
そうして経験し成長して、今の創価学会があるのだと思っています。
それはさておき、先生は、当時の信ずることにせっかちな会員の強引さや、情熱に任せて壮士気取りの青年の言動に、ひそかにつよい反発を抱いたこともあるといいます。
このときの心境を次のように書かれています。
「折伏しろっていうから自分の友人を10人ぐらい呼んだ。しかもだれも信心しない。一生懸命やっても友達は離れていく。・・・ 会合に行くのがやだから映画をみてしまった日もある。」
そうして本当に生涯を、仏法の探究と宣揚に捧げて悔いない決意を固めたのは、入会して1年後、戸田先生の経営されていた会社で働かないかと誘われた時だったといいます。
池田先生のきらいなこと
官僚主義であり、権威主義であるということ。
欠点とは、リーダーが傲慢になると、正しい報告に耳をかたむけなくなる。
建設的な意見をとりあげなくなる。実行に移さなくなる。上には諂い、下には威張る。地位や肩書で人を見る。
自分中心で保身を第一とし、責任感がない。独善的で、差別的で、秘密主義である。
石頭でしゃくし定規。視野が狭い。前例に強くこだわり、新しい物や、創造的なものを嫌う。思いやりや人間味に欠ける。
そしてこうも言われています。
男性主導だと、官僚主義になる危険がある。
その意味で、もっと女性の意見を反映させた組織でなければならない。女性の意見には、多くの真実がある。
非常に大切なことが書かれており、多くのことを学ばせていただきました。
あとは実践あるのみです。日々挑戦、日々努力!
本当にありがとうございます。
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