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創価学会の理想・理念 教育と宗教・信仰の違い
私たちの人生の目的とは何でしょうか。
人それぞれ、色々あるかと思いますが、誰もが共感できるものとして、「幸福」があります。
僕らの目的は、幸福であるといえるでしょう。みんな一人ひとりが幸せになる事です。
そこで今回、池田先生はなぜ教育(創価大学・創価学園・創価幼稚園など)と宗教・信仰(創価学会・SGI)の両方があるか考えてみましょう。
宗教・信仰とは、教育を受けれない人、貧しい人、不遇の人でも、魂の救いをもたらすことが出来ます。また、精神性の内側・生命を深く探求してゆくことができます。しかし宗教・信仰の世界だけに閉じこもってしまえば独善と盲目に陥ってしまい、社会に通用してゆくことができなくなり、結果的に不幸になってしまいます。
教育とは、生命を開花させるものです。教育によって自分の外側のことを知り、活動の場を得たり、能力を発揮することができます。しかしここに「教育は何の為」という、自分自身の原点がなければ、単なる自己満足の教育となってしまい、結果的に不幸に陥ってしまうでしょう。
つまり、「教育と宗教」この両方が備わってこそ人間らしく生き、平和の軌道に入っていけるのです。
幸福とは生命の開発、無限の可能性を引き出すこと。
つまり、人間教育と仏法は、実は表裏一体なのです。
「不軽菩薩」とは
不況の時代を生きた菩薩の事ではありません(笑)。
こんなお話が仏典にはあります。
ずっと遠い昔に威音王如来(いおんのうにょらい)という仏がいた。この仏の滅後、像法年間に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩がいた。彼は会う人全てに常に次のように言って修行した。
「我深く汝等(なんじたち)を敬う(うやまう)。敢えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何ん(いかん)。汝等皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」
このように一切の人々をことごとく礼拝した。ときにこの時代は謗法者(悪い輩)も充満していた。
「頭おかしいんじゃないのかあいつ・おまえに言われる筋合いなどない」等、この不軽菩薩を見て馬鹿にし、いじめ、暴力を振るいこれを迫害した。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、彼はますますそういう輩の中に飛び込んで、礼拝の一行を全うした。そして遂に不軽菩薩は仏身を成就することが出来た。
しかし彼を軽賤した者は、その罪により二百億劫もの間、仏に会わず・法を聞かず・僧にも会うことが出来ず、更に千劫の間阿鼻地獄に落ちて大苦悩を受けた。
というお話です。実はこの不軽菩薩は、釈尊の過去世の姿だったのです。彼らはその罪を終えて、やっと釈尊の教えを受けることができたのです。
この不軽菩薩を現在に置き換えると、全人類を含め、あらゆる生命の胸中に不可能を可能とする生命尊厳の法である「南無妙法蓮華経」のすごさを語れる私たち一人ひとりのことなのです。
大事なのは、
①自他共の成長を祈り切り
②自身を真に成長させてくれるのは「強敵」である事を知る
③異体同心の団結で、勇気を出して語りきる事
ではないでしょうか。
この挑戦の中にこそ、自己の限界や行き詰まりを打破し(人間革命・境涯革命)、大きく成長していけるのです。仏法を広める作業はすごい福運と功徳になるのです。
以上です。ありがとうございます。
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創価学会の理想・理念 教育と宗教・信仰の違い
私たちの人生の目的とは何でしょうか。
人それぞれ、色々あるかと思いますが、誰もが共感できるものとして、「幸福」があります。
僕らの目的は、幸福であるといえるでしょう。みんな一人ひとりが幸せになる事です。
そこで今回、池田先生はなぜ教育(創価大学・創価学園・創価幼稚園など)と宗教・信仰(創価学会・SGI)の両方があるか考えてみましょう。
宗教・信仰とは、教育を受けれない人、貧しい人、不遇の人でも、魂の救いをもたらすことが出来ます。また、精神性の内側・生命を深く探求してゆくことができます。しかし宗教・信仰の世界だけに閉じこもってしまえば独善と盲目に陥ってしまい、社会に通用してゆくことができなくなり、結果的に不幸になってしまいます。
教育とは、生命を開花させるものです。教育によって自分の外側のことを知り、活動の場を得たり、能力を発揮することができます。しかしここに「教育は何の為」という、自分自身の原点がなければ、単なる自己満足の教育となってしまい、結果的に不幸に陥ってしまうでしょう。
つまり、「教育と宗教」この両方が備わってこそ人間らしく生き、平和の軌道に入っていけるのです。
幸福とは生命の開発、無限の可能性を引き出すこと。
つまり、人間教育と仏法は、実は表裏一体なのです。
「不軽菩薩」とは
不況の時代を生きた菩薩の事ではありません(笑)。
こんなお話が仏典にはあります。
ずっと遠い昔に威音王如来(いおんのうにょらい)という仏がいた。この仏の滅後、像法年間に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩がいた。彼は会う人全てに常に次のように言って修行した。
「我深く汝等(なんじたち)を敬う(うやまう)。敢えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何ん(いかん)。汝等皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」
このように一切の人々をことごとく礼拝した。ときにこの時代は謗法者(悪い輩)も充満していた。
「頭おかしいんじゃないのかあいつ・おまえに言われる筋合いなどない」等、この不軽菩薩を見て馬鹿にし、いじめ、暴力を振るいこれを迫害した。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、彼はますますそういう輩の中に飛び込んで、礼拝の一行を全うした。そして遂に不軽菩薩は仏身を成就することが出来た。
しかし彼を軽賤した者は、その罪により二百億劫もの間、仏に会わず・法を聞かず・僧にも会うことが出来ず、更に千劫の間阿鼻地獄に落ちて大苦悩を受けた。
というお話です。実はこの不軽菩薩は、釈尊の過去世の姿だったのです。彼らはその罪を終えて、やっと釈尊の教えを受けることができたのです。
この不軽菩薩を現在に置き換えると、全人類を含め、あらゆる生命の胸中に不可能を可能とする生命尊厳の法である「南無妙法蓮華経」のすごさを語れる私たち一人ひとりのことなのです。
大事なのは、
①自他共の成長を祈り切り
②自身を真に成長させてくれるのは「強敵」である事を知る
③異体同心の団結で、勇気を出して語りきる事
ではないでしょうか。
この挑戦の中にこそ、自己の限界や行き詰まりを打破し(人間革命・境涯革命)、大きく成長していけるのです。仏法を広める作業はすごい福運と功徳になるのです。
以上です。ありがとうございます。
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