28 2017

創価学会仏(そうかがっかいぶつ)とはなにか 創価学会の意味その4

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170128幸福

創価学会仏 創価学会は何のためにあるのか。引き続きその4です。
池田先生のご指導「法華経の智慧」より学びます。


創価学会は一人一人を真心こめて大切にしてきた団体

「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」という名前については、いろいろ面白い話があったね。我々が親しんでいる鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「妙法蓮華経」では「常に(人を)軽んじなかった」菩薩という意味だが、サンスクリット語では反対に「常に(人から)軽んじられた」男という意味だったという。
創価学会もそうです。民衆蔑視の日本の社会から、いつもバカにされてきた。「貧乏人と病人の集まり」と軽蔑する人間も多かった。
しかし、戸田先生は「貧乏人と病人を救うのが本当の宗教である!!」と師子吼された。
金もうけの宗教は、金持ちだけを大切にする。貧乏人なんか相手にしません。
いわんや病人を集めて、何になりますか。病院を開くわけではなし――。
真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。
この崇高な心の分からない人間からは、我々は「常に軽蔑されて」きました。それでも、相手がだれであれ、我々は悩める人がいれば、飛んでいって面倒を見てきた。
抱きかかえながら、「あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ」と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。
「一人の人」を身を粉にして育て、世話してきた。まさに「常に人を軽んじなかった菩薩」です。(中略)
ただ、何か、「組織の力」とか命令とかで、大衆がこれだけの団結をするはずがないということです。一人一人を真心こめて大切にしてきたから学会は強いのです。学会のその「心」を強調したかったのです。
世間の指導者のほとんどは命令主義です。自分は楽をし、自分が疲れないようにして結果だけを盗もうとする。そんな指導者が多すぎる。我々は、これを革命しているのです。
(法華経の智慧第5巻105~107㌻)


最前線の学会の同志こそ不軽菩薩

不軽菩薩は、上手な話もしなかった。偉そうな様子を見せることもなかった。ただ、愚直なまでに「下種」をして歩き回った。その行動にこそ、三世にわたって、「法華経」が脈動しているのです。
要するに学会員です。最前線の学会の同志こそが、不軽菩薩なのです。皆から尊敬されて、自分が偉いと思っているのは「増上慢の四衆」です。幹部にしても、だれにしても、「創価学会」という不思議な仏勅の団体に力があるからこそ、活躍もできるし、ものごとも進む。それを自分の力のように錯覚するところに、転落が始まり、堕落が始まる。
ともあれ「豈異人ならんや」――自分自身が不軽菩薩なんだ、南無妙法蓮華経の当体なんだと決めて、「不軽」の修行をしていくことです。
(法華経の智慧第5巻118㌻)


「一切衆生の幸福」を祈り「広宣流布」に動く地涌の菩薩

日蓮大聖人が涌出品・寿量品とともに、もっとも重要視されたのが、この「神力品」です。それは、ここに末法万年の「広宣流布」を託す儀式が説かれているからです。
そもそも法華経とは何だろうか。
それは「釈尊の遺言」です。釈尊が一番、言い遺しておきたかったことです。それでは、釈尊の一番の「悲願」は何だったのだろうか。
それは「生きとし生けるものよ、幸福になれ!」という願いです。釈尊は言っている。

「母が己が独り子を命を懸けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし」(『ブッダのことば-スッタニパータ』中村元訳・岩波文庫)

母が一人っ子を、命がけで守るように、あらゆる人を、あらゆる生命を幸福にしようと、命をかけて立ち上がれ!要するに、広宣流布に立ち上がるということです。

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(同)
「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみ)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(同)

私どもは、朝夕の勤行で、いつも「一切衆生の幸福」を祈っている。一切衆生とは、生きとし生けるものです。その幸福を祈っている。「崇高な境地」です。
祈るだけではない。行動している。その祈りを現実にするために「広宣流布」に動いている。「崇高な境地」です。
地涌の菩薩でなければ、できないことです。その地涌の菩薩に、末法の広宣流布は頼むよ、と託したのが神力品です。
「付属」がなければ、仏法は師匠の一代限りで終わってしまう。それでは、そんなに偉大な「法」があっても、何にもならない。人を救うことはできない。
生きとし生けるものを慈しめ、と言っても、苦しみを救えないのでは観念論です。「法」を教えて、「人」を救うのが仏法です。(中略)
「師弟」がなければ「仏法」はないということは言えるでしょう。
釈尊は、自分の死後の人々の幸福を考えたとき、「いかにすべきか」と悩んだと思う。そして結論として、釈尊は、自分の死後は、自分自身を仏にしてくれた「釈尊の師匠」である「永遠の妙法」そのものを師匠として修行せよと弟子に教えたかったのではないだろうか。(中略)その「遺言」を晩年、折にふれて釈尊は語った。それが後に、現在のような「法華経」としてまとめられたのではないだろうか。(中略)
焦点は完全に、釈尊の入滅後にある。未来にある。未来の「広宣流布」にある。この一点を見失っては、法華経の心はわかりません。
(法華経の智慧第5巻134~140㌻)


以上です。
ありがとうございます。
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