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著者 江原啓之 新潮文庫
昔も今も、スピリチュアルが流行っている。アセンションとかいうのも流行っている。
私もこの手のものは大好きだ。(笑) だから興味本位でついつい読んでしまう。
その上で率直に意見を申し上げると、今回の江原さんの本は、私にとってはすこし物足りない本でした。
ゴメンナサイ。
江原さんが使命を自覚し、生命は永遠であることを伝えようとしている内容。
スピリチュアルな世界に気付かせようとしている。それ自体はすばらしいことだと思う。
江原さんの「宗教」という概念は、神にすがる、拝む、といったものを「宗教」と呼んでいるようだ。
つまり、江原さんのいう宗教とは、神へのおすがり信仰をさしている。
神道で学び、イギリスで見聞を広めた。つまり、神とはその二つのみ。すがるものなのだ。
この「宗教」に対する視点が、私の認識と違っているようだ。
そう、宗教と一言にいっても、皆、それぞれの視点があって、宗教という言葉から連想されるイメージがみな違うのである。
だからこそ、まず人と話すときには、この宗教に関する相手の理解を認識し、その上で話を進めていく必要があるだろう。
仏法でいうと、「神」とは祈る対象ではなく、諸天善神など、生命を守る「働き」として説かれている。
また、念仏などの仏教では、仏にすがる・祈る、という捉え方もあるため、この点から見ると「仏他力本願的な要素を指している。
云っていることは真理の一端を含むのだろう。
日蓮仏法、創価学会の仏教は、ここで云う「すがる宗教」とは根本的に違ってくる。
なぜかというと、一切のあらゆる生命、自他に内在する仏界・仏性という生命を開く生き方を教えているためだ。
だから、あらゆる事象・環境を他人のせいにする生き方を教えていない。
また、自他不二、依正不二、一念三千、縁起・等といった思想があり、それゆえに生命尊厳を訴え抜くことを教える。つまり、自力本願でも他力本願でもないのだ。
話しは戻るが、江原さんが認識している宗教とは、イコール盲信者の集い、こういった構図があると思っている節を感じた。
それは、江原さんが縁した宗教を持った人たちから学んだことなのだろう。
この本を読んで、江原さんに真の日蓮仏法・創価学会、そして師弟の道を知って頂けると嬉しいと思った次第である。
以下に、一部心にとどめ、考えさせられた箇所を抜粋したい。
★あの世からのメッセージを伝えるときに大切なのは、その人が現世で抱えている悩みを解消することではない。この現世の「物質主義的価値観」という不幸の生活原理の代わりに、「霊的価値観」という新たな視点を当たえることなのです。
→なるほど、なぜこの世に生まれてきたのか、その本人に気付きを与える、新たな視点を持たせるということなんだなと思った。
★今はまさに「自然霊」の時代。人類が「人霊」としての感性を失いつつあり「自然霊」に近くなっている。世界中に低級な自然霊が増えているのである。
→面白い捉え方ですね。自然霊が低級と言われていますが、今この時を流されて瞬間瞬間を生きてしまうのか、それもと今この瞬間を真剣に生きるのかの違いなのかなと感じた。
★あなたの魂があの世に唯一もっていけるものは、この世で味わった「経験」と、そこから得た喜怒哀楽様々な「感動」だけです。それが私たちの魂を磨く。いかにたくさんの感動を得たかに尽きる。
→自らの実感として、そのとおりだと思う。
★霊能力者は一技術者です。人々をスピリチュアルな人生に目覚めさせ、霊的心理を伝えていくのが本来の仕事。何か特定の宗教を信じれば幸せになれるというのも絶対にうそ。それが本当ならば世界中の人たちがそれを信仰すればいい。しかし真理に照らせば、信じただけで幸せになるなど、あり得ない話です。
→いわゆる思想の正邪により、価値感の相違により、幸・不幸が決まることを言いたかったのかなと思った。
★私がもっとも苦手としているのは特定の宗教の信仰者です。霊的真理を最も受け入れられない人達だからです。ドグマの中で生きているため、共通言語を持ちにくく、否定論者以上に霊的真理が入り込む余地を有していません。何かの宗教にすがれば幸せになれるという考え自体が、そもそも霊的真理に反しています。もっときちんと考えて生きてほしいのです。何かを信じて拝んだりしただけで幸せになれるなんて、第一不公平だし、あまりに単純すぎます。私はただ、宗教そのものを否定しているわけでは決してありません。宗教を妄信し、それにすがって自分の頭では何も考えないという生き方は虚しいと言いたいのです。
→考えさせられますね。本当にそうだなあと思う。最後まで読んで、江原さんの云いたい事が少し理解できた気がします。盲目になるなということ。特定の宗教の信者は盲目になる傾向が強いといえるでしょう。なぜなら自分が信じているものを否定することは、自らを否定することに繋がるため、目を背けてしまうのだ。しかし逆に、宗教を絶対に信じないという人も、同じ状態に陥る可能性があるといえるだろう。お金や科学や自分への執着に盲目的になる傾向性があるからだ。
つまり、なぜ自分は生まれたのか。何のために存在しているのか。道を求めるとやはり生命哲学が必要となってくるでしょう。
この点、私は日蓮大聖人の仏法の信仰者として、「疑わない」と「疑いが無い」というのでは大きく異なることを示しておきたい。そして、人類の平和のために、友や家族や同志の笑顔のために、自他の幸福のために、生命尊厳を表現しぬき、自分の周りに顕在化して、今世を懸命に、また楽しく、皆と共に力強く生き抜いていこうと思っています。
以上です。
本当にありがとうございます。
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スピリチュアルな人生に目覚めた江原さんから学ぶ
題名 スピリチュアルな人生に目覚めるために-心に「人生の地図」を持つ 302P著者 江原啓之 新潮文庫
昔も今も、スピリチュアルが流行っている。アセンションとかいうのも流行っている。
私もこの手のものは大好きだ。(笑) だから興味本位でついつい読んでしまう。
その上で率直に意見を申し上げると、今回の江原さんの本は、私にとってはすこし物足りない本でした。
ゴメンナサイ。
江原さんが使命を自覚し、生命は永遠であることを伝えようとしている内容。
スピリチュアルな世界に気付かせようとしている。それ自体はすばらしいことだと思う。
江原さんの「宗教」という概念は、神にすがる、拝む、といったものを「宗教」と呼んでいるようだ。
つまり、江原さんのいう宗教とは、神へのおすがり信仰をさしている。
神道で学び、イギリスで見聞を広めた。つまり、神とはその二つのみ。すがるものなのだ。
この「宗教」に対する視点が、私の認識と違っているようだ。
そう、宗教と一言にいっても、皆、それぞれの視点があって、宗教という言葉から連想されるイメージがみな違うのである。
だからこそ、まず人と話すときには、この宗教に関する相手の理解を認識し、その上で話を進めていく必要があるだろう。
仏法でいうと、「神」とは祈る対象ではなく、諸天善神など、生命を守る「働き」として説かれている。
また、念仏などの仏教では、仏にすがる・祈る、という捉え方もあるため、この点から見ると「仏他力本願的な要素を指している。
云っていることは真理の一端を含むのだろう。
日蓮仏法、創価学会の仏教は、ここで云う「すがる宗教」とは根本的に違ってくる。
なぜかというと、一切のあらゆる生命、自他に内在する仏界・仏性という生命を開く生き方を教えているためだ。
だから、あらゆる事象・環境を他人のせいにする生き方を教えていない。
また、自他不二、依正不二、一念三千、縁起・等といった思想があり、それゆえに生命尊厳を訴え抜くことを教える。つまり、自力本願でも他力本願でもないのだ。
話しは戻るが、江原さんが認識している宗教とは、イコール盲信者の集い、こういった構図があると思っている節を感じた。
それは、江原さんが縁した宗教を持った人たちから学んだことなのだろう。
この本を読んで、江原さんに真の日蓮仏法・創価学会、そして師弟の道を知って頂けると嬉しいと思った次第である。
以下に、一部心にとどめ、考えさせられた箇所を抜粋したい。
★あの世からのメッセージを伝えるときに大切なのは、その人が現世で抱えている悩みを解消することではない。この現世の「物質主義的価値観」という不幸の生活原理の代わりに、「霊的価値観」という新たな視点を当たえることなのです。
→なるほど、なぜこの世に生まれてきたのか、その本人に気付きを与える、新たな視点を持たせるということなんだなと思った。
★今はまさに「自然霊」の時代。人類が「人霊」としての感性を失いつつあり「自然霊」に近くなっている。世界中に低級な自然霊が増えているのである。
→面白い捉え方ですね。自然霊が低級と言われていますが、今この時を流されて瞬間瞬間を生きてしまうのか、それもと今この瞬間を真剣に生きるのかの違いなのかなと感じた。
★あなたの魂があの世に唯一もっていけるものは、この世で味わった「経験」と、そこから得た喜怒哀楽様々な「感動」だけです。それが私たちの魂を磨く。いかにたくさんの感動を得たかに尽きる。
→自らの実感として、そのとおりだと思う。
★霊能力者は一技術者です。人々をスピリチュアルな人生に目覚めさせ、霊的心理を伝えていくのが本来の仕事。何か特定の宗教を信じれば幸せになれるというのも絶対にうそ。それが本当ならば世界中の人たちがそれを信仰すればいい。しかし真理に照らせば、信じただけで幸せになるなど、あり得ない話です。
→いわゆる思想の正邪により、価値感の相違により、幸・不幸が決まることを言いたかったのかなと思った。
★私がもっとも苦手としているのは特定の宗教の信仰者です。霊的真理を最も受け入れられない人達だからです。ドグマの中で生きているため、共通言語を持ちにくく、否定論者以上に霊的真理が入り込む余地を有していません。何かの宗教にすがれば幸せになれるという考え自体が、そもそも霊的真理に反しています。もっときちんと考えて生きてほしいのです。何かを信じて拝んだりしただけで幸せになれるなんて、第一不公平だし、あまりに単純すぎます。私はただ、宗教そのものを否定しているわけでは決してありません。宗教を妄信し、それにすがって自分の頭では何も考えないという生き方は虚しいと言いたいのです。
→考えさせられますね。本当にそうだなあと思う。最後まで読んで、江原さんの云いたい事が少し理解できた気がします。盲目になるなということ。特定の宗教の信者は盲目になる傾向が強いといえるでしょう。なぜなら自分が信じているものを否定することは、自らを否定することに繋がるため、目を背けてしまうのだ。しかし逆に、宗教を絶対に信じないという人も、同じ状態に陥る可能性があるといえるだろう。お金や科学や自分への執着に盲目的になる傾向性があるからだ。
つまり、なぜ自分は生まれたのか。何のために存在しているのか。道を求めるとやはり生命哲学が必要となってくるでしょう。
この点、私は日蓮大聖人の仏法の信仰者として、「疑わない」と「疑いが無い」というのでは大きく異なることを示しておきたい。そして、人類の平和のために、友や家族や同志の笑顔のために、自他の幸福のために、生命尊厳を表現しぬき、自分の周りに顕在化して、今世を懸命に、また楽しく、皆と共に力強く生き抜いていこうと思っています。
以上です。
本当にありがとうございます。
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