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著者 陳舜臣 ・ 中公文庫
「羽は協伍に良く侍すれども、士大夫に驕なり。飛は君子を敬愛すれど、小人を恤れまず。」
つまり関羽は部下の兵卒たちには優しかったが、士大夫すなわち同僚など上層の人たちに対しては驕慢であった。その反対に、張飛は君子すなわち上層階級の人を敬愛し、ときには卑屈と思えるくらいの態度をとったのに、下層の人たちにはまるで愛情を持たなかった。
孟達は樊城(はんじょう)を攻め倦(あぐ)む関羽に援軍を送ったが「出すぎたまねをするな」と断られ、戦局がどんなに厳しくなっても一兵の援軍も送らなかった。つまり、関羽は荊州を守っていたが、同僚である孟達とうまくいかないがために、食料、軍需品の調達、輸送がうまくいかず、最終的には敵に捕らえられ、殺されている。
孟達はというと、彼は劉備から恨まれていると考え、魏に下る。このとき、孟達の部下に劉備の実の子、劉禅が生まれる前に養子となった劉封がいた。劉封は孟達の後任として上庸を守っていたが、魏に敗れて成都に逃げ帰る。
孔明は劉備に死を賜るべきと進言した。何故か。劉禅は頼りなげな15歳の少年。劉封は剛猛な人物で、帝国の将来の禍根になりかねない。天下万民のためという信念で思い切って劉封に死を賜ったのだ。諸葛孔明はこのとき何を思ったのだろうか。晏子について思いを巡らせていたのかもしれない
劉備が関羽の復讐戦は回避できないことを知り、如何に損害を小さくするかに焦点を絞る。孔明の物指しは常に「民を案ずる」を目標とし、基準としていた。東征反対も強く主張できなかったのも、失脚を恐れたからである。我が命は天下万民のための命、だからこそ、彼は慎重であった。
この「民衆のための命だからこそ、失脚できない」という心情を想像するに、孔明の苦渋の選択はいかばかりであっただろうか。このとき、毛沢東に対する周恩来の心を重ね合わせた自分がいた。
このほか、法正と孔明は好みは違っていたが、職の政治という公の立場では互いに認め合っていた。
孔明は東征延期を画策したが、皮肉にも張飛が部下に暗殺される。これも張飛の嗜虐性の傾向が強くなってきていたことが要因のようだ。ここから蜀の敗走が始める。
何故このような状況になってしまったのだろうか。これには大きな要因があると考える。それは、孔明は天下万民を目標としていた。しかし、関羽、張飛にとっての目標は劉備に認めてもらうことであり、天下万民のためという基準が不明確であったのかもしれない。ここに志の浅深により、目には見えない大きな差が現れる。いつしか自己を基準とし始めたとき、大きな狂いが生じてきたのだろう。
その後劉備亡き後、蜀の首相として、孔明は力ある限り戦った。弱小を持って強大に当たるにはどうすればよいのかを常に考えた。強大な相手の隙を見出し、弱小の味方に実力以上の勢いをつけることが勝利の条件であった。勝って勢いをつけるために、君主に対して自分の心意を表明するための、「出師の表」を創ったのだ。
馬謖は断片癖があった。才能があり雄弁であったところに孔明は惚れた。しかし劉備は馬謖について「その言、その実を過ぎたり。大用すべからず」と指示していた。しかし孔明は大用してしまい、泣いて馬謖を切ることになる。馬謖は孔明に認められたい、兄の馬良よりも優れているところを見せたい。この修羅の生命の働きから、奇手を考え、実行し、失敗したのである。
人材不足、あの時徐庶を引き止めておけばと思う孔明。しかしときすでに遅し。凡夫には未来は見えない。わからない。それ以上に後になってから気づくことのほうが多い。必要なこと、それは今この瞬間を真剣に生きるということ。そうすれば後悔しなくてよい。
李厳との不仲。孔明ばかり目だって彼は事務的才能があったにもかかわらずそれを発揮しようとしなかった。それにとどまらず、嫉妬の心から孔明の足を引っ張ろうともした。
それぞれ一人ひとりは力があったにもかかわらず、団結できない。其れゆえの敗北。
死期が近づくにつれて、孔明は涅槃について考える。よく燃えた人のニルヴァーナは、それだけ美しいと回想する。真剣に生きること。美しく燃えて散ること。
彼は生き、その後曹操に続いて、曹丕、曹植も先に死んでしまった。「高樹 悲風多し」と曹植は歌った。
諸葛孔明は自分自身の心と対話する。「天下三分の計」とはなにか。
それは戦乱で争うのではなく、人々を幸せにする競争が行われることを信じたのである。
学問、富、人道、人心の競争の時代。其れを彼は望んでいた。その時代こそが真の幸福と信じ、天下三分の計はそのための計であった。
彼の一念は、万民の幸福、全てはそこにつきた。この戦乱の時代、彼の心を癒す本当の仲間は皆無であった。
孔明亡き後、30年後に蜀は魏に降伏した。263年であった。
この本には特徴ある個性の持ち主が、登場人物としてたくさん出てくる。人には得て不得手がある。全てに抜きん出る人はそうはいない。
このような人間観のドラマの中で大切なことを学んだ。人生を生きるうえで、目標をどこに定めているのか、判断する上での恒久な基準とはなんであるかということである。
孔明の信念、それは「民衆のために」であった。すなわち著者が、最も伝えたかったことではないだろうか。
「民衆のために」 この志は、これからの時代こそ、益々光り輝いていくだろう。
今はまさに、生命の世紀であり、生命尊厳の時代であるからだ。
孔明はいまの時代を羨望の眼差しで見ているのかもしれない。
以上です。
本当にありがとうございます。
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陳舜臣の諸葛孔明(下)を読んで
題名 諸葛孔明(下) 402P著者 陳舜臣 ・ 中公文庫
「羽は協伍に良く侍すれども、士大夫に驕なり。飛は君子を敬愛すれど、小人を恤れまず。」
つまり関羽は部下の兵卒たちには優しかったが、士大夫すなわち同僚など上層の人たちに対しては驕慢であった。その反対に、張飛は君子すなわち上層階級の人を敬愛し、ときには卑屈と思えるくらいの態度をとったのに、下層の人たちにはまるで愛情を持たなかった。
孟達は樊城(はんじょう)を攻め倦(あぐ)む関羽に援軍を送ったが「出すぎたまねをするな」と断られ、戦局がどんなに厳しくなっても一兵の援軍も送らなかった。つまり、関羽は荊州を守っていたが、同僚である孟達とうまくいかないがために、食料、軍需品の調達、輸送がうまくいかず、最終的には敵に捕らえられ、殺されている。
孟達はというと、彼は劉備から恨まれていると考え、魏に下る。このとき、孟達の部下に劉備の実の子、劉禅が生まれる前に養子となった劉封がいた。劉封は孟達の後任として上庸を守っていたが、魏に敗れて成都に逃げ帰る。
孔明は劉備に死を賜るべきと進言した。何故か。劉禅は頼りなげな15歳の少年。劉封は剛猛な人物で、帝国の将来の禍根になりかねない。天下万民のためという信念で思い切って劉封に死を賜ったのだ。諸葛孔明はこのとき何を思ったのだろうか。晏子について思いを巡らせていたのかもしれない
劉備が関羽の復讐戦は回避できないことを知り、如何に損害を小さくするかに焦点を絞る。孔明の物指しは常に「民を案ずる」を目標とし、基準としていた。東征反対も強く主張できなかったのも、失脚を恐れたからである。我が命は天下万民のための命、だからこそ、彼は慎重であった。
この「民衆のための命だからこそ、失脚できない」という心情を想像するに、孔明の苦渋の選択はいかばかりであっただろうか。このとき、毛沢東に対する周恩来の心を重ね合わせた自分がいた。
このほか、法正と孔明は好みは違っていたが、職の政治という公の立場では互いに認め合っていた。
孔明は東征延期を画策したが、皮肉にも張飛が部下に暗殺される。これも張飛の嗜虐性の傾向が強くなってきていたことが要因のようだ。ここから蜀の敗走が始める。
何故このような状況になってしまったのだろうか。これには大きな要因があると考える。それは、孔明は天下万民を目標としていた。しかし、関羽、張飛にとっての目標は劉備に認めてもらうことであり、天下万民のためという基準が不明確であったのかもしれない。ここに志の浅深により、目には見えない大きな差が現れる。いつしか自己を基準とし始めたとき、大きな狂いが生じてきたのだろう。
その後劉備亡き後、蜀の首相として、孔明は力ある限り戦った。弱小を持って強大に当たるにはどうすればよいのかを常に考えた。強大な相手の隙を見出し、弱小の味方に実力以上の勢いをつけることが勝利の条件であった。勝って勢いをつけるために、君主に対して自分の心意を表明するための、「出師の表」を創ったのだ。
馬謖は断片癖があった。才能があり雄弁であったところに孔明は惚れた。しかし劉備は馬謖について「その言、その実を過ぎたり。大用すべからず」と指示していた。しかし孔明は大用してしまい、泣いて馬謖を切ることになる。馬謖は孔明に認められたい、兄の馬良よりも優れているところを見せたい。この修羅の生命の働きから、奇手を考え、実行し、失敗したのである。
人材不足、あの時徐庶を引き止めておけばと思う孔明。しかしときすでに遅し。凡夫には未来は見えない。わからない。それ以上に後になってから気づくことのほうが多い。必要なこと、それは今この瞬間を真剣に生きるということ。そうすれば後悔しなくてよい。
李厳との不仲。孔明ばかり目だって彼は事務的才能があったにもかかわらずそれを発揮しようとしなかった。それにとどまらず、嫉妬の心から孔明の足を引っ張ろうともした。
それぞれ一人ひとりは力があったにもかかわらず、団結できない。其れゆえの敗北。
死期が近づくにつれて、孔明は涅槃について考える。よく燃えた人のニルヴァーナは、それだけ美しいと回想する。真剣に生きること。美しく燃えて散ること。
彼は生き、その後曹操に続いて、曹丕、曹植も先に死んでしまった。「高樹 悲風多し」と曹植は歌った。
諸葛孔明は自分自身の心と対話する。「天下三分の計」とはなにか。
それは戦乱で争うのではなく、人々を幸せにする競争が行われることを信じたのである。
学問、富、人道、人心の競争の時代。其れを彼は望んでいた。その時代こそが真の幸福と信じ、天下三分の計はそのための計であった。
彼の一念は、万民の幸福、全てはそこにつきた。この戦乱の時代、彼の心を癒す本当の仲間は皆無であった。
孔明亡き後、30年後に蜀は魏に降伏した。263年であった。
この本には特徴ある個性の持ち主が、登場人物としてたくさん出てくる。人には得て不得手がある。全てに抜きん出る人はそうはいない。
このような人間観のドラマの中で大切なことを学んだ。人生を生きるうえで、目標をどこに定めているのか、判断する上での恒久な基準とはなんであるかということである。
孔明の信念、それは「民衆のために」であった。すなわち著者が、最も伝えたかったことではないだろうか。
「民衆のために」 この志は、これからの時代こそ、益々光り輝いていくだろう。
今はまさに、生命の世紀であり、生命尊厳の時代であるからだ。
孔明はいまの時代を羨望の眼差しで見ているのかもしれない。
以上です。
本当にありがとうございます。
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