10
2023
釈尊の対話に学ぶ 『新・人間革命』3巻 仏陀の章
- CATEGORY創価学会三代会長ご指導
- COMMENT0
スポンサーリンク

私たちは何故この世に生を受けたのか
人生の意味とは何か
『新・人間革命』3巻 仏陀の章より、釈尊の生き様の姿が、生き生きと描かれています。
この中で、釈尊の2つのエピソードが心強くに残りましたので、紹介させて頂きます。
あるとき、優樓頻螺迦葉(ウルビンラカショウ)という、500人の弟子を持つバラモンの師がいた
彼は釈尊との法論を通して、釈尊の正しさに気づく。
しかし彼はその教えを受け入れようとはしない。
多くの弟子がいるので屈服したとなれば沽券に関わる事態であるからだ。
釈尊に対する態度もぞんざいで上から目線であった。
それに対し釈尊は、どこまでも礼を尽くす。
確信を込めて理路整然と誠心誠意に法を解いた。
彼は語り合ううちに釈尊の人格、人柄に傾倒していった。
立場や対面にばかり気にする自分の卑しさを浮き彫りにされる思いがした。
とうとう彼は釈尊に帰依を誓う。
まさに人格と人格の勝負
布教とは単なる理論の闘争ではない。
人格を通しての、生命と生命の打ち合いであった。
あるとき、舎衛城で愛児を亡くし、亡骸を抱き締めて、町をさ迷う母親に出会う。
彼女は釈尊に縋りつくように云う。
「この子を救う薬を下さい!」
彼女の目は異様に血走っていた。
釈尊はその様子を見てとると、力強く言った。
「わかった。私がその子を救う薬を作ってあげよう。
町へいってケシの種をもらってきなさい。
ただし、そのケシの種は死人を出したことの無い家からもらってこなければならぬ」
彼女は急いで町に行き、一件一件くまなく回った。
しかし、ケシの種はあっても、死人を出したことのない家など、ただの一件もない。
母親は次第にどの家の人も、子供や親を亡くして、そっと胸に秘めて生きていることに気づいた。
そして、人生は無情であることを知るとともに、自分の悲しみだけが、決して特別なものではないことを知る。
こうして彼女は釈尊の弟子となり、のちに聖者の一人として仰がれるようになった。
狂乱せんばかりに苦しんでいた母親の心ば、通り一遍の励ましでは、到底励ますことなどできない。
それを十分に察知した上での釈尊の対応。
かれは、苦悩に打ちひしがれた、病める生命を蘇らせる、生命の名医であった。
以上です。
1つ目のエピソードからは
対話とは、相手を論破することではなく、心から納得させること。
相手がどうであれ、どこまでも相手の仏性を信じて忍耐強く誠実に接していく、こちら側の姿勢が大切であること。
また、2つ目のエピソードからは
相手の苦しみを救うために智慧から生まれた方便を用いて、苦しみのどん底から救った釈尊の慈愛。
どこまでも目の前の一人を救おうとする自らの一念がどれだけ深いのか。
相手がどうのこうのではなく、全部、自分自身の一念にあるということを学ば差せて頂きました。
あなたはどのように感じたでしょうか。
本当にありがちうございます。
◇スポンサーリンク◇

釈尊の対話に学ぶ 『新・人間革命』3巻 仏陀の章
私たちは何故この世に生を受けたのか
人生の意味とは何か
『新・人間革命』3巻 仏陀の章より、釈尊の生き様の姿が、生き生きと描かれています。
この中で、釈尊の2つのエピソードが心強くに残りましたので、紹介させて頂きます。
その1 優樓頻螺迦葉(うるびんらかしょう)との対話
あるとき、優樓頻螺迦葉(ウルビンラカショウ)という、500人の弟子を持つバラモンの師がいた
彼は釈尊との法論を通して、釈尊の正しさに気づく。
しかし彼はその教えを受け入れようとはしない。
多くの弟子がいるので屈服したとなれば沽券に関わる事態であるからだ。
釈尊に対する態度もぞんざいで上から目線であった。
それに対し釈尊は、どこまでも礼を尽くす。
確信を込めて理路整然と誠心誠意に法を解いた。
彼は語り合ううちに釈尊の人格、人柄に傾倒していった。
立場や対面にばかり気にする自分の卑しさを浮き彫りにされる思いがした。
とうとう彼は釈尊に帰依を誓う。
まさに人格と人格の勝負
布教とは単なる理論の闘争ではない。
人格を通しての、生命と生命の打ち合いであった。
愛児を失った母親の話
あるとき、舎衛城で愛児を亡くし、亡骸を抱き締めて、町をさ迷う母親に出会う。
彼女は釈尊に縋りつくように云う。
「この子を救う薬を下さい!」
彼女の目は異様に血走っていた。
釈尊はその様子を見てとると、力強く言った。
「わかった。私がその子を救う薬を作ってあげよう。
町へいってケシの種をもらってきなさい。
ただし、そのケシの種は死人を出したことの無い家からもらってこなければならぬ」
彼女は急いで町に行き、一件一件くまなく回った。
しかし、ケシの種はあっても、死人を出したことのない家など、ただの一件もない。
母親は次第にどの家の人も、子供や親を亡くして、そっと胸に秘めて生きていることに気づいた。
そして、人生は無情であることを知るとともに、自分の悲しみだけが、決して特別なものではないことを知る。
こうして彼女は釈尊の弟子となり、のちに聖者の一人として仰がれるようになった。
狂乱せんばかりに苦しんでいた母親の心ば、通り一遍の励ましでは、到底励ますことなどできない。
それを十分に察知した上での釈尊の対応。
かれは、苦悩に打ちひしがれた、病める生命を蘇らせる、生命の名医であった。
以上です。
1つ目のエピソードからは
対話とは、相手を論破することではなく、心から納得させること。
相手がどうであれ、どこまでも相手の仏性を信じて忍耐強く誠実に接していく、こちら側の姿勢が大切であること。
また、2つ目のエピソードからは
相手の苦しみを救うために智慧から生まれた方便を用いて、苦しみのどん底から救った釈尊の慈愛。
どこまでも目の前の一人を救おうとする自らの一念がどれだけ深いのか。
相手がどうのこうのではなく、全部、自分自身の一念にあるということを学ば差せて頂きました。
あなたはどのように感じたでしょうか。
本当にありがちうございます。
- 関連記事




◇スポンサーリンク◇