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2016
創価学会初代会長 牧口常三郎先生の御生涯を学ぶ
- CATEGORY創価学会三代会長ご指導
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11月は創立の月です。
ご経歴を学びたいと思います。内容は、牧口先生のいくつかの書籍より学んだものです。
あらためて、牧口先生の偉大さと慈悲深き生きざまに胸を熱く打たれます。
創価学会初代会長、牧口常三郎先生は、明治4年6月6日、新潟県柏崎市荒浜で生を受けました。14歳のころ、数年前に消息を絶った父の後を追うようにして北海道に渡り、小樽警察署の給仕(つまり食堂のウェイターのようなもの)となりました。働きながら夜学校に通い、学問に励む牧口先生には「勉強給仕」というあだながつけられました。
明治22年、18歳の時に小樽群長(小樽市長のようなもの)の推薦で、創立間もない北海道尋常師範学校(北海道教育大学の前身)に第1種生(つまり推薦の特待生)として入学されました。その後4年の課程を終えて、尋常師範学校を卒業して付属小学校の訓導(つまり教師)に任命。さらに3年後の明治29年には、文部省検定試験の地理科に合格し、中等学校地理科の教員免許状を取得されました。その後、28歳のときには、付属小学校の校長となる。この間にも、北海道教育雑誌にしばしば論文を発表し、将来を嘱望されておりました。
しかし、こつこつと研究を進めてきた「地理学」の研究成果を世に問いたいと考え、30歳のときには師範学校教論の職を辞し、書きためた2000枚の原稿を持って上京しました。この原稿は明治36年、牧口先生32歳の時に「人生地理学」として出版したもので、翌年から毎年版を重ねるほど好評だったそうです。この「人生地理学」をきっかけとして、新渡戸稲造や柳谷国男などの代表的知識人との親交が深まりました。
その後、46歳のときには、のちの創価学会第二代会長となる戸田城聖先生と運命の出会いをはたします。
昭和3年、57歳の時に、現在の目白学園の校長だった三谷そけい氏の話を聞いて、日蓮大聖人の仏法に興味を持ち、三谷氏の自宅を訪ねて10日間ほど通い続けた末、日蓮正宗に入信されました。信仰は牧口先生に大きな変化をもたらしました。その時の感動をつぎのように記しています。「言語に絶する歓喜を持ってほとんど60年の生活法を一新するに至った。暗中模索の不安が一掃され、生来の引っ込み思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、恐れることが少なくなり、国家教育の改造を一日も早く行わせなければならぬというような大胆なる念願を禁ずる能わざるに至った等がそれである」
入信から2年後、昭和5年11月18日、牧口先生は長年にわたる研究と思索の結晶ともいうべき「創価教育学体系」の第一巻を、戸田先生の協力を得て発刊されました。この日が今日の創価学会の淵源となる「創価教育学会」創立の日となったのです。
時代が軍部主義へとすすんでいくとともに、昭和16年には治安維持法が改定されます。
日蓮正宗は軍事政権に負け、日蓮大聖人の仏法の法義を曲げ、昭和18年6月についに神札受諾を公的に徹底する方針を決定。当時の法主、日恭の立会いのもと、牧口先生を呼びつけ、学会も神札を祭るよう命じました。牧口先生は「神札は絶対に受けません。」と厳然と拒否。宗門は牧口先生に大石寺の登山停止と信徒除名処分を下したのです。
7月6日、牧口先生は折伏のために出かけた伊豆下田の須崎で逮捕。戸田先生や他幹部、合せて21名が逮捕されました。その後、弾圧に屈して退転しなかったのは牧口先生・戸田先生の二人のみだったのです。
初めは食事はご飯とみそ汁とたくあん、次第にコウリャンが混じったり、味噌汁が形ばかりの塩水になったといいます。
運動は一日10分、風呂は時間を決めて1週間に1度だけでした。
家族あてに手紙を出すことは、10日に1通と決まっていました。看守の下で書くのです。
予審判事による取り調べが始まったのは昭和19年4月より。数馬判事を通して軍部国家権力へ、国家諌暁を開始されます。牧口先生の獄中闘争です。
昭和19年7月14日には、牧口先生が獄中で書かれた「取り調べ調書」なるものを数馬判事へ提出。お手紙の中で「安心した。あとは御本尊に御まかせです。」
数馬判事という人物は、創価教育学会を直接弾圧した張本人。創価教育学会の幹部を退転させ、壊滅的打撃を与えたのが数馬判事であり、牧口先生にとっては当面の最大の敵でありました。戸田先生は昭和26年7月10日に書かれた「創価学会の歴史と確信」で次のように述べられています。「不思議や、数馬判事の私の憎む事、山よりも高く、海よりも深き実情であった。法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の取り調べになるや、重大な神経衰弱に陥り、12月18日より3月8日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。」
牧口先生が「獄中書簡」を数馬判事に提出したと手紙に記された7月4日の日付から、14日後の7月18日、東条内閣は総辞職したのです。つまり、創価学会を壊滅させた軍事政権は崩壊したのです。直接の因果関係は別として、時を一つにしたリズムの不思議さを感じます。
牧口先生は特別高等警察の尋問に対しても、答えると言うより教えるという堂々たる態度で臨まれました。
昭和19年11月17日、自らの死期を悟り、歩いて病監に向かった。翌11月18日、なんの不安も思いのこすことなく静かにお亡くなりになったと言いいます。牧口先生のご遺体は、実家の店で働いていた番頭さんが巣鴨の拘置所から目白の自宅までおぶって、歩いて連れて来てくれました。その番頭さんは「まだ体が温かく、やわらかく、生きているみたいでした」と語っていたと言います。
牧口先生は、三男、洋三さんとその夫人の貞子さんをよく可愛がっていました。牧口先生は二人を座らせて「これから先のことだけど、僕にもしもの事があって、死んだ時には、一切戸田君がしてくれる。お焼香をするのは戸田君が一番先だ。お前たちは一番最後だよ」と云われた事があると言います。また「戸田君の時代になったら、学校へ行きたいと思っても行けない人のために、学校ができるよ。大学もできる」と語っていたと言います。
牧口先生の人生を学び、言葉にはいいつくせない感情がこみあげてきます。
11月1日となりました。
三代会長のご恩を決して忘れず、堂々たる勝利の実証、広宣流布の実証を示すことをあらためて誓い、11月18日を目指して戦い抜いて参ります。
本当にありがとうございます。
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創価学会初代会長 牧口常三郎先生の御生涯
11月は創立の月です。
ご経歴を学びたいと思います。内容は、牧口先生のいくつかの書籍より学んだものです。
あらためて、牧口先生の偉大さと慈悲深き生きざまに胸を熱く打たれます。
創価学会初代会長、牧口常三郎先生は、明治4年6月6日、新潟県柏崎市荒浜で生を受けました。14歳のころ、数年前に消息を絶った父の後を追うようにして北海道に渡り、小樽警察署の給仕(つまり食堂のウェイターのようなもの)となりました。働きながら夜学校に通い、学問に励む牧口先生には「勉強給仕」というあだながつけられました。
明治22年、18歳の時に小樽群長(小樽市長のようなもの)の推薦で、創立間もない北海道尋常師範学校(北海道教育大学の前身)に第1種生(つまり推薦の特待生)として入学されました。その後4年の課程を終えて、尋常師範学校を卒業して付属小学校の訓導(つまり教師)に任命。さらに3年後の明治29年には、文部省検定試験の地理科に合格し、中等学校地理科の教員免許状を取得されました。その後、28歳のときには、付属小学校の校長となる。この間にも、北海道教育雑誌にしばしば論文を発表し、将来を嘱望されておりました。
しかし、こつこつと研究を進めてきた「地理学」の研究成果を世に問いたいと考え、30歳のときには師範学校教論の職を辞し、書きためた2000枚の原稿を持って上京しました。この原稿は明治36年、牧口先生32歳の時に「人生地理学」として出版したもので、翌年から毎年版を重ねるほど好評だったそうです。この「人生地理学」をきっかけとして、新渡戸稲造や柳谷国男などの代表的知識人との親交が深まりました。
その後、46歳のときには、のちの創価学会第二代会長となる戸田城聖先生と運命の出会いをはたします。
昭和3年、57歳の時に、現在の目白学園の校長だった三谷そけい氏の話を聞いて、日蓮大聖人の仏法に興味を持ち、三谷氏の自宅を訪ねて10日間ほど通い続けた末、日蓮正宗に入信されました。信仰は牧口先生に大きな変化をもたらしました。その時の感動をつぎのように記しています。「言語に絶する歓喜を持ってほとんど60年の生活法を一新するに至った。暗中模索の不安が一掃され、生来の引っ込み思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、恐れることが少なくなり、国家教育の改造を一日も早く行わせなければならぬというような大胆なる念願を禁ずる能わざるに至った等がそれである」
入信から2年後、昭和5年11月18日、牧口先生は長年にわたる研究と思索の結晶ともいうべき「創価教育学体系」の第一巻を、戸田先生の協力を得て発刊されました。この日が今日の創価学会の淵源となる「創価教育学会」創立の日となったのです。
時代が軍部主義へとすすんでいくとともに、昭和16年には治安維持法が改定されます。
日蓮正宗は軍事政権に負け、日蓮大聖人の仏法の法義を曲げ、昭和18年6月についに神札受諾を公的に徹底する方針を決定。当時の法主、日恭の立会いのもと、牧口先生を呼びつけ、学会も神札を祭るよう命じました。牧口先生は「神札は絶対に受けません。」と厳然と拒否。宗門は牧口先生に大石寺の登山停止と信徒除名処分を下したのです。
7月6日、牧口先生は折伏のために出かけた伊豆下田の須崎で逮捕。戸田先生や他幹部、合せて21名が逮捕されました。その後、弾圧に屈して退転しなかったのは牧口先生・戸田先生の二人のみだったのです。
初めは食事はご飯とみそ汁とたくあん、次第にコウリャンが混じったり、味噌汁が形ばかりの塩水になったといいます。
運動は一日10分、風呂は時間を決めて1週間に1度だけでした。
家族あてに手紙を出すことは、10日に1通と決まっていました。看守の下で書くのです。
予審判事による取り調べが始まったのは昭和19年4月より。数馬判事を通して軍部国家権力へ、国家諌暁を開始されます。牧口先生の獄中闘争です。
昭和19年7月14日には、牧口先生が獄中で書かれた「取り調べ調書」なるものを数馬判事へ提出。お手紙の中で「安心した。あとは御本尊に御まかせです。」
数馬判事という人物は、創価教育学会を直接弾圧した張本人。創価教育学会の幹部を退転させ、壊滅的打撃を与えたのが数馬判事であり、牧口先生にとっては当面の最大の敵でありました。戸田先生は昭和26年7月10日に書かれた「創価学会の歴史と確信」で次のように述べられています。「不思議や、数馬判事の私の憎む事、山よりも高く、海よりも深き実情であった。法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の取り調べになるや、重大な神経衰弱に陥り、12月18日より3月8日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。」
牧口先生が「獄中書簡」を数馬判事に提出したと手紙に記された7月4日の日付から、14日後の7月18日、東条内閣は総辞職したのです。つまり、創価学会を壊滅させた軍事政権は崩壊したのです。直接の因果関係は別として、時を一つにしたリズムの不思議さを感じます。
牧口先生は特別高等警察の尋問に対しても、答えると言うより教えるという堂々たる態度で臨まれました。
昭和19年11月17日、自らの死期を悟り、歩いて病監に向かった。翌11月18日、なんの不安も思いのこすことなく静かにお亡くなりになったと言いいます。牧口先生のご遺体は、実家の店で働いていた番頭さんが巣鴨の拘置所から目白の自宅までおぶって、歩いて連れて来てくれました。その番頭さんは「まだ体が温かく、やわらかく、生きているみたいでした」と語っていたと言います。
牧口先生は、三男、洋三さんとその夫人の貞子さんをよく可愛がっていました。牧口先生は二人を座らせて「これから先のことだけど、僕にもしもの事があって、死んだ時には、一切戸田君がしてくれる。お焼香をするのは戸田君が一番先だ。お前たちは一番最後だよ」と云われた事があると言います。また「戸田君の時代になったら、学校へ行きたいと思っても行けない人のために、学校ができるよ。大学もできる」と語っていたと言います。
牧口先生の人生を学び、言葉にはいいつくせない感情がこみあげてきます。
11月1日となりました。
三代会長のご恩を決して忘れず、堂々たる勝利の実証、広宣流布の実証を示すことをあらためて誓い、11月18日を目指して戦い抜いて参ります。
本当にありがとうございます。
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